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プログラミング、ゲームシステムなど普段考えたことについてのメモ帳代わり。
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No.5
2009/04/13 (Mon) 09:39:30

 ――コギト・エルゴ・スム

 「我思う、ゆえに我あり」
 と訳されるルネ・デカルトの言葉ですが、実際これは妥協点なのかな、と私は思います。
 彼はひたすら色々なものを否定してみて、残された明らかなものとして「考える自分」を挙げました。デカルトの著作は一切読んでいないので、詳細は分からず知ったかぶりもいいところですが。
 ともあれ、その「考える自分」というものも含めあらゆるものは否定しようとすることができます。重要なのは否定できるわけではなく、“否定しようとできる”こと。
 いったい何が否定できないのかというと、それは唯一絶対のものではありませんが、普段思考するあらゆることの根底部分に位置していることです。これを否定してしまうとどんなことにも回答することができなくなる、というもの。その1つとしてデカルトは「我」を挙げたのではないでしょうか。
 先ほど妥協点と書きましたが、それでもデカルトの答えは素晴らしく秀逸なもので、「我」を否定してしまうといかなるものにも回答を出すことができなくなります。
 数学は人間が作った概念ですが、そこにはルールが存在します。そのルールを正しいと仮定して次のステップへ進むわけです。
 人間の思考は全て同様で、なにかしらの仮定を当然のこととしてその上に思考を積み上げていくのです。
 否定することが出来ないものは複数ありますが、その多くはループに嵌ってしまいます。最も簡単な例としては、

 全ては肯定することが出来ない。
 ならば、“全ては肯定することが出来ない。”という言葉も肯定することが出来ない。

 これは以下ループ、エンドレスです。処理の戻ってこない再帰関数のようなもの。
 GNU is Not Linuxと同じです。

 勢いだけで書いているためにおかしくなってきていますが、
 結局のところ、人が最初に仮定として、気づかずに当然としているものは自分自身なのではないかというのが私の思いで、
 これがすなわち「我思う、ゆえに我あり」ということなのではないだろうか。
 そういうことです。

 これをスパッと言い切ったデカルトという人物は確かに大きな存在でしょう。
 私はフランシス・ベーコンの方が好きですが。体調悪いのに雪ではしゃいで体悪くして人生終了とか楽しいじゃないですか。
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