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プログラミング、ゲームシステムなど普段考えたことについてのメモ帳代わり。
No.
2025/05/09 (Fri) 22:32:37

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No.6
2009/04/24 (Fri) 00:41:35

自分は、あまりにもプログラマに向いていない。
普段から感じることだが、先輩と話をすると強くそれを感じる。

手段として、ゲームを作るために自分はプログラムを書く。
とはいえ、プログラミングが嫌いなわけではない。
それでも、どこまでも貪欲になれない自分はプログラマとして不適であるのだろうと思う。

なんにでもそうだが、私は貪欲に情報を得ようと動くことがない。
本当に、一切ない。
新しいことに興味はあっても、新しいことを渇望しない。消極的な興味しか持たない。そこに実行力と繋がる力は発生しない。
ゆえに、私は新しいことを得ない。
ニュースを見ない。

先輩は色々な物事について、段階的に掘り下げ追求して調べていく。新しいことにも目を向け、常に貪欲に情報を掴んでいくスタイル。

私は自分の使っている言語についてすら、情報を仕入れようとしない。まったく、そんな気にならない。
かなり絶望的だ。
でも、そこに焦りはあっても、実行へ移ろうという思いは発生しない。

致命的なまでに、私は欲がない。のかもしれない。
それでも、ないわけではない。諦めているだけなのかもしれない。

ならば、克服していかなければならないのかもしれない。
無欲さの矯正をしなければならないのかもしれない。
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No.5
2009/04/13 (Mon) 09:39:30

 ――コギト・エルゴ・スム

 「我思う、ゆえに我あり」
 と訳されるルネ・デカルトの言葉ですが、実際これは妥協点なのかな、と私は思います。
 彼はひたすら色々なものを否定してみて、残された明らかなものとして「考える自分」を挙げました。デカルトの著作は一切読んでいないので、詳細は分からず知ったかぶりもいいところですが。
 ともあれ、その「考える自分」というものも含めあらゆるものは否定しようとすることができます。重要なのは否定できるわけではなく、“否定しようとできる”こと。
 いったい何が否定できないのかというと、それは唯一絶対のものではありませんが、普段思考するあらゆることの根底部分に位置していることです。これを否定してしまうとどんなことにも回答することができなくなる、というもの。その1つとしてデカルトは「我」を挙げたのではないでしょうか。
 先ほど妥協点と書きましたが、それでもデカルトの答えは素晴らしく秀逸なもので、「我」を否定してしまうといかなるものにも回答を出すことができなくなります。
 数学は人間が作った概念ですが、そこにはルールが存在します。そのルールを正しいと仮定して次のステップへ進むわけです。
 人間の思考は全て同様で、なにかしらの仮定を当然のこととしてその上に思考を積み上げていくのです。
 否定することが出来ないものは複数ありますが、その多くはループに嵌ってしまいます。最も簡単な例としては、

 全ては肯定することが出来ない。
 ならば、“全ては肯定することが出来ない。”という言葉も肯定することが出来ない。

 これは以下ループ、エンドレスです。処理の戻ってこない再帰関数のようなもの。
 GNU is Not Linuxと同じです。

 勢いだけで書いているためにおかしくなってきていますが、
 結局のところ、人が最初に仮定として、気づかずに当然としているものは自分自身なのではないかというのが私の思いで、
 これがすなわち「我思う、ゆえに我あり」ということなのではないだろうか。
 そういうことです。

 これをスパッと言い切ったデカルトという人物は確かに大きな存在でしょう。
 私はフランシス・ベーコンの方が好きですが。体調悪いのに雪ではしゃいで体悪くして人生終了とか楽しいじゃないですか。
No.4
2009/04/02 (Thu) 18:59:56

 普段からあらゆる時間配分を考えて行動している、そんな人に出会ったことは無い。けれど、無意識の時間配分・・・結果から振り返った過程が1つ、人と人との大きな差となって現出する。

 この長い春休み、2ヶ月間を私はほぼ何もしないまま過ごした。
 新4年生としてもちろん、就職活動は行った。その過程で過去に制作したゲームのソースコードを修正したり、新しいゲームの制作に取り組んだりもした。
 しかしその内実は酷いもので、何かをし得たとは言い難い有様だ。

 ここで冒頭に戻る。春休みの自分が出した、何もしていないという結果。そこから詳細を振り返ってみる。
 時間について考えてみると、自分にとって必要性のあることに費やした時間が非常に短いという結論が出る。
 具体的には、時間的浪費ばかりが目立つ”ただの遊び”にかけた割合が8割程度、ゲーム制作など自分にとって今必要な事柄にかけた時間が2割程度。さらにその2割が、私の散漫な興味のおかげで細分化される。細分化されてそれでも残った、ゲーム制作に関わった時間というのは5%程度しかないのではないか。私はそう考える。
 この私の2ヶ月間を1と考えると、その中で10を完了する人が世界には多数いることだろう。何せ5%を10倍したところで時間的には半分、50%にしかならないのだから。そういった人たちは、私のような愚かな時間の使い方をしない。それが計算されたものであれ、無意識であれ。

 ともかく、なんとかしてこの状態を脱却せねばならない。でなければ私は典型的なダメ人間で終わってしまう。
 だが、自分を統制できないからこそ今私はこうしている。脱却するのは簡単なことではない。
 それでもしなければならないのだから、1つの妙案としてはやはり、ゲームを削ることだろう。無駄を有益へシフトする。
 そして今までの10倍とは言わないが、せめて5倍の結果を出す。本来なら、そこそこのゲームであれば1日で原型が全て出来上がってしまうくらいなのだから、今の状況がむしろ異常なのだ。
 時間は有限であると自覚する必要がある。

No.2
2009/03/21 (Sat) 08:46:30

 才能云々じゃない。それは程度の差を作ることしかしない。

 結局、出来る人と出来ない人の間にあるのは、結果が出るまでそれを続けられるか否かということなのだと思う。
 継続は力なりとはよく言ったもので、そもそも一瞬で結果を得ようということ自体が間違っているのだ。確かに極限まで割り裂いた一欠を成すのは一瞬の結果かもしれない。しかしそれは表出されない極微小なものでしかない。
 何かが明確な形を持つためには、相応の継続と努力が必要となる。見えにくい現状からダメだと判断し努力をやめてしまうと、それこそそのままになってしまう。ひたすら走り続けることができるなら、いつかそれは明確な形を持つ。
 どんなことであれ、過程というのは結果があって初めて顧みられるものだと思う。自分自身にしてもそうだ。自分の過程に自信を持ち、自分自身に自信を感じるのは結果があってこそ。

 真っ直ぐに、ひたむきに、折れることなく。

 諦めず、軸を曲げず、続けること。
 そこに、集約される。
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